アナログ時代の授業

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学校でのコンテンツは、「与えられる」もの。

授業の中で、提示される大半のものは、先生方が子どもたちに対して、作成したものになります。高度情報化社会を背景として、ICTを活用した教材提示も盛んに行われています。しかし、主に活用されるのは、アナログ的な教材、ということになるでしょう。

アナログ的な教材。すなわち、教科書であったり、掛け図であったり、その形はさまざま。教授するために提示される大半、実情はほとんど全てが、「教える側」が、「教えられる側」のために作成したものとなるのです。

「教える側」。これは、一般的には、言うまでもなく「教師」となります。

「教えられる側」。こちらは、児童、生徒、学生と学齢によって呼び方は変わりますが、ある意味、全てが「子どもたち」と言うことができると考えています。学校だけでなく、さまざま学びの場を想定すると、「子ども」という表現が、適切でない場合もあるでしょう。しかし、ここでは、「教えられる側」もしくは、「教えられる」という立場にある人々を、「子どもたち」と呼びたいと思います。

「教える側」の「教師」に対峙する「教えられる側」としての「子どもたち」、という意味です。

「教えられる」は、「与えられる」と言い換えることができるでしょう。「知」を「与える」と「与えられる」という関係で、学校は成り立っているのです。そういう見方でいくと、子どもたちは、「知」を「与えられる側」にいることになります。

「与える側」に準備されたコンテンツは、「与えられる側」に伝達される、ことになるのです。

このような関係が、一方的になればなるほど、子どもたちは「受け身」となってしまいます。伝達された情報が、ある一方向に進んでいくだけになってしまうのです。子どもたちは、教師によって作成されたコンテンツを受け取るだけの存在に陥ってしまう危険性を、その在り方の本質に持っていることになってしまうのです。

授業が、「教える側」と「教えられる側」との対峙関係で成り立つものならば、一方通行になることが、本質的な特徴かもしれません。コンテンツは、「教える側」「与える」側から、一方的であることが、実は、本質的な授業の形式なのかもしれません。特に、一斉授業では、その傾向は強く成らざるを得ないと考えています。

特に、「教える側」の作成した教科書を含む教材が、アナログ的であった場合、その傾向は強まるように思えて成りません。限られた授業時間の枠の中で、アナログ的な教材を、その場で作成することは困難を極めるでしょう。そうなると、アナログ的な教材は、授業以前に「教える側」が授業内容に則して、準備しておかざるを得ないのです。

この「授業内容に則して準備する」ことが、危険なのです。そこで準備される教材・教具は、「教える側」の考えた「教えるべき内容」に則して、作成されてしまうからです。教材・教具ができあがった時には、ある程度、授業の内容は「教える側」によって、作られてしまっていることになるのです。授業という「物語」が完成してしまっているのです。

授業の進む方向は、授業が始まる以前に、決まっていることになります。「教えるべき内容」も「身につけるべきこと」も、全てが、教師、「教える側」によって、既存のものとして存在していると言うことになってしまうのです。

これが、悪いことと言うのではありません。ただ、このような環境の元では、「教えられる」「与えられる」という傾向は、一層、顕著になると考えています。

これが、アナログ時代のもっとも典型的な授業の在り方と考えることができます。授業の時間枠という拘束によって、事前に準備された「教えるべき内容」、授業のコンテンツを、子どもたちは「与えられる」という立場に追いやられてしまうのです。これがアナログ時代の限界だったのです。子どもたちは、授業のコンテンツを与えられる、という立場になることが一般的だったのです。

教師が教えるべきことは、コンテンツに限られません。その背後に隠されたコンテクストの伝達が不可欠です。そうでなければ、教科のための教科の勉強や、学校の勉強のための勉強に陥ってしまう危険性があるのです。生活実感のない学校の勉強、となってしまうのです。

授業で活用されるコンテンツは、表象に過ぎません。その背後に隠されたコンテクストを伝えることによって、始めて、生活実感のある学びにたどり着くことができると考えています。このように考えることが許されるのであれば、教師という仕事は、授業の準備として用意されたコンテンツを伝えるだけでなく、そのコンテクストまでも、伝えることが必要、と定義することができるのです。

学校の授業とは、事前に準備されたコンテンツを通じて、コンテクストを伝える空間であると考えることができるのです。良い授業、と呼ばれるものは、コンテクストを伝達するためのコンテンツ、という目的意識が明確なコンテンツの活用が図られている授業、と言っても良いかもしれません。その前提が、当然、良いコンテンツの作成であることは言うまでもないことです。

アナログ時代には、教師によって、その全てが担われていたと言っていいでしょう。コンテンツの作成から、伝達、その背後にあるコンテクストの伝達まで、全てが教師に課されていたことになります。デジタル時代でも、そのことは何ら変わらないということになるのでしょうか。

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