自己紹介を自由に作成
2009年12月8日、3年生の情報科な日々。
自己紹介をKeynoteで作成して、Keynoteの使い方を覚えてしまおうという作戦。自己紹介文を作成することで、日本語入力も覚えてしまおうという作戦。
今後、必須となる日本語入力。今しっかりと覚えておかないと、情報科な日々で息切れしてしますよ。
これまでの情報科な日々を踏まえて、子どもたちの自由な活動の時間をできる限り増やす展開。2学期の終わりですから、まとめのつもりで。
器用にこなす子ども。
ダブルクリックでファイルを開くこともままならない子ども。
ファイルを開くことはできても、日本語入力がなかなか身につかない子ども。
基本をきちんと身につけて、活動を進めていけば問題はないはずです。
器用にできている子どもは、基本をきちんと守ることができています。
マウスの持ち方。
ドラッグの仕方。
Keynoteでテキスト編集をする方法。
deleteキー、returnキー、spaceキーもきちんと間違えずに入力できています。
それをひとつでも間違えてしまうと、なかなか思ったようにいきません。
そんな時の子どもたちの口癖。
先生、変な画面が出てきた。
僕からの答えは、
変な画面は出てきません。
という簡潔なもの。
自分が操作したとおりにきちんと処理をしてくれているiMacに、「変な画面」は失礼千万。
子どもたちが言う「変な画面」とは、自分が考えたのとは違った画面、ということを意味しています。
自分が想像していた画面と違う画面になったから、それが「変だ」といったらコミュニケーションは成り立ちません。
もし仮に本当に「変な画面」が出てきたら、それは故障です。2001年から始まる情報科な日々で、故障して「変な画面」が出てきたことはありません。少なくとも、授業が始まってから、変な画面になってしまったことは、一度もありません。
自分の操作がおかしいことを、iMacのせいにしてはいけません。
自分のどこが間違っていたかを確認して、それを正さない限り、何度でも同じ過ちを繰り返します。
意地悪ではなく、子どもたちの論理に合わせて「変な画面は出ません」と応えることにしています。
3年生の発達段階では、自由な活動ということが苦手。先生にあれやっても良いですか、これやっても良いですかと確認しないと作業が進みません。
これやるとどうなりますか?
そんな質問もやってきます。
そんな時は、
やってみれば?
と問い返すことにしています。
大切なことは失敗を恐れずに、いろいろなことに挑戦してみること。それが正しければそれにこしたことはありません。
間違ったら素直に過ちを認め、再度、挑戦することです。素直に過ちを認めることも、3年生の発達段階では難しいのでしょうか。
間違いは間違い。それで良いのです。きちんと話を聞いていないから間違う。間違ったら作業が先に進まない。進まないのはあたかも、コンピュータが思った通りに動いてくれないからだという態度はよくありません。
自分の問いかけが、確実に戻ってくるのがコンピュータです。コンピュータが悪いと言うことは、問いかけをおこなった自分が悪いのです。そういう気持ちにならないと、雷が落ちます。
間違えるから怒られるのではないのです。きちんと話を聞いていないから怒られれるのです。きちんと話を聞かずに、身勝手な作業をして、にっちもさっちもいかなくなってから、コンピュータがきちんと動かないという言い方をするから、ビリビリと雷が落ちるのです。
話を誤解して聞いている場合もあるようです。
情報科な日々では、手をきれいに洗ってくることが義務づけられています。これは、手を洗うことに意味があるのではありません。手をきれいにすることに意味があるのです。
なぜ?
子どもたちが使っているコンピュータは、次の時間には別のクラスの誰かが使うのです。手の汚れは、直接触るマウスやキーボードにすぐに移ってしまします。手が汚れていると、気がつけばマウスが真っ黒なんてことになるのです。
手を洗ったあとボールを触った。
これではなんの意味もありません。なぜ手を洗うかの意味がわかっていない証拠です。
言葉には意味があります。手を洗うこと、それは手をきれいにすると同時に、同じ学校で学ぶ友だちが気持ちよくコンピュータを使えるようにすることを意味してもいるのです。
言葉には、必ず、裏側に意味があるのです。意味を考えずに行動しなければ、言葉を忠実に再現していることにはならないのです。
言葉は耳で聞くだけでは駄目なのです。心で聞かなければ意味がないのです。心が通じ合わなければ言葉は言葉として、意味を失ってしまうのです。
それを考えずに行動すると、大きな雷が落ちます。巨大な雷が落ちるのです。
説明を聞く時は、お喋りをしない。
これも情報科な日々での基礎の基礎となる約束。
なぜお喋りをしてはいけないのですか?
お喋りをしながらでは、説明をきちんと聞くことができないからです。
情報科な日々では、2つのことは同時にできないと考えています。喋ることと説明を聞くことを同時にすることなんてできないと思っています。
子どもだけでなく、それは大人でも同じ。2つのことを同時にすれば、どちらもが半端になって何も身につかないのです。
喋ってはいけない時には喋らない。
これも徹底しなければならないと思っています。ほんの少しならいいかは許されません。なにがほんの少しかは、人によって違うので明確な「ほんの少し」が存在しません。
どの「ほんの少し」が許されて、どの「ほんの少し」が許されないかが、人によって違ってくるのです。人によって違うのでは、客観性がありません。だから、絶対にお喋りはしない、しかないのです。
しかしこれも、子どもたち自身の活動を支えることなのです。こちらの都合で喋ってはいけないということではありません。自分のために、話してはいけない時はお喋りをしてはいけないのです。
このことも、手を洗ってくると同じです。言葉の表象だけをとらえていては、我慢の世界に入っていきます。我慢するのではないのです。自分を守るために喋ってはいけないのです。自分が先に進むために喋ってはいけないのです。何もかも自分のためなのです。
これも守れないと雷が落ちます。ゴロゴロと雷が落ち続けます。自分で考えて行動できること。その基本は、こういうところにも表れてくるのです。
だからこそ、厳しく決まりを守って、情報科な日々は進んでいくのです。

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